無題

 こんな事を書くのはかなり衝撃的な事があったからかもしれないが、今までの自分を振り返ると、何もなくても書くのかもしれないのでそんな事はどうでも良くて、取り合えず言っておきたいのはこれから書く文章は普段のこのblogに書いてある文章以上に意味のない、そして取り留めの無い物だから斜め読みを推奨しておこうと思ったけれども読まない事が一番のお勧めだと書いた瞬間に、今までのblogの文章で読まない事以外を推奨出来た文章があったかと問われれば、『ない』と言わざるを得ないのが実情なのだけれども、そんな所で自虐的になったとしても何の意味もないので止めておこうと思いつつも「意味のある事ってじゃあ一体何だよ?」って質問されても答えに窮してしまう位の思考力しかない人間だから、偶に途方もなく深い穴の中に入り込んだ様な気持ちになる事があって、今も と言うよりも少し前も入り込みそうになったばかりだった様な、ただ単に自分で穴を掘ってて気が付いたら抜け出せなくなっていたと言う様な、まあ読んでも訳がわからないだろうけれど、この文章の目的は誰かにわかってもらおうという物では微塵もないから良いのだと思っているのは事実なのだが、ではなぜweb上に書いているのかと問われると、やはり誰かに主張したいからと言う気持ちが拭い切れていないのかもしれない、と考えた瞬間に何だか自分の人間の小ささと言うか醜さを見せ付けられた様な気になってしまうけれども、やはり書く欲求には敵わず今日もこうして書いている僕の最近の日々は少し病んでいるのかと言うとそんな事もなくて、日々幸せを感じていると書くと嘘っぽくなるので嫌なのだが実際事実なのだから仕様が無いのだけれども、今ふと幸せの数を数えてみたところ『アレ』以外には小沢健二Coccoが新譜を発表するらしいという様な、正直大部分の人間にとっては恐らくどうでも良い内容の事しか思い付かなくて、しかも良く良く考えると小沢健二の新譜は全曲インストらしいし、Coccoのタイトルナンバーは『音速パンチ』という「それってどうなの?」と思ってしまう事も無きにしも非ずな物なのだけれども、それでも期待の方が大きいのではあるが、やはり期待外れな内容だと幸福から不幸へのフリーフォールだし、フリーフォールは苦手なので余り期待しないで待っておこうと思う今日この頃、皆様はいかがお過ごしですか?と言ってみたは良いけど、今の自分には他人を思いやれる余裕などは微塵もないので上辺だけの言葉となってしまった事が非常に残念で、もっと残念な事は自分が普段から上辺な人間だと良く思われがちな事なのだけれども、「じゃあ、違うの?」って真正面から切り込まれると白旗を揚げるしかない程に自分には自信を持てない僕は本来、実は自信過剰な人間で恐らく今でも、根の深くはそうなのだろうけれども、小学4年生を境にして今の様になってしまったのだと思うが、今ここで詳細を書く気はしないしこれからも書かないだろうと思って、書かない話題には触れなければ良かったと後悔しつつも『Back Space』は使う気がしないのは、どちらかと言うと前のめりな人間が好きだからと言う事がほんの少しは関係しているのかもしれないなあ、と思ったり思わなかったりするが、女性が実際に歩く時に姿勢が前のめりなのは余り見ていて美しいものではないな、とそういえば今日思った事を思い出した今は27日の午後10時を少し過ぎた所で、世界が元気に回っているのを見ると、何だか自分だけが取り残された様な思春期的な気持ちになるのは確かなのだけれど、数年前に比べれば雲泥の差なのは確かであろうし、悩みの種はどちらかと言うと少し現実的な方向に近付いて来ていて余計不気味であったりもするのだが、僕は意外に思われる程楽観主義者でもあるので何とかなるだろうと思ってもいて、『人生万事塞翁が馬』という言葉が結構好きで良く使っているのだけれども心の底では良い事で終わってくれなくては困るぞ、と言葉に意味がなくなってしまう様な事を思ってしまっているのは事実なのだが、そんな僕の最近のテーマソングは100円で買った『ホフディラン』の『極楽はどこだ』だったりするので致し方ない所だと納得している事を納得してくれる人はいったい何人いるのだろうか等と考えて深みにはまってみたりもする、という様な時間があったらもう少し勉強すれば良いのにと、我ながら思ったりもするが、今は機力も材力も流力も熱力も数学も、そして最近有り得ない程楽しかった英語でさえやる気がしないので、勉強するのは諦めて、せめてさっき名前の出た小沢健二の13分36秒もある『天使達のシーン』という『犬は吠えるがキャラバンは進む』というこれまた長いタイトルの、今は『dogs』と言う詰まらないタイトルになってしまったCDに入っている歌を聴く事にすると、やはり「小沢健二の新譜は買わねばなるまい」と言う気持ちになってくるので未聴の人は是非聴いてみて欲しいし、小沢健二自身のセルフレビューもなかなか面白いので読んでもらいたいなあ、と書いてみて、東大生にも色々あるな、と今更ながらに考えてみるのは勿論、小沢健二が東大卒でこのblogのある場所であるlivedoorの堀江氏も東大生であったからだが、僕が今必死になって色々な本を読み漁っているのは恐らく学歴コンプレックスに由来する部分が少なからずあるのだろうな、と漠然と考えるだけで暗澹たる思いになってしまっていけないので、取り合えずそろそろこの文章にも見切りを付けなければいけないのだが、この山手線文章 −割と僕が使うのだが− は途中下車する事が難しいのであるのだが、それは青春18切符の目的のない旅にも似ていなくはない、とか格好の良さそうな事を書いてみるが、少し違う気がして赤面気味である僕は『江川達也』の『東京大学物語』を読んでいたのでこう言う文章を書いてしまうのかもしれないけれども、『江川達也』がどこからそういったループ構造を引っ張って来たかは不勉強で知らない、と言うよりもむしろ興味がなかったりするし、今この文章がループ構造を成しているかと言うと全く成していないし、させるつもりもないのだが、ただ今はせっかく離れたと思った『東大』つまりは『学力』の話題付近に戻ってしまった事が酷くもどかしいけれども、やはり物事は振り子式に、つまり行っては来て、来ては行ってを繰り返していて、それはもちろん調和振動のようにsinやcosの関数で表せはしないけれども、もしかしたら数百年後の哲学者は人間の真理を数式で表しているのかもしれないと言う電波めいた想像をしてほくそ笑んではみたが、良く考えると随分と在り来たりであるし、実際に紀元前6世紀には『ピタゴラス』が「万物の根源は数である」と言っていたらしいので、電波とも言えない紀元前レベルの想像であった事に落胆した瞬間、気付けば『天使達のシーン』の次の曲の『ローラースケート・パーク』が流れていてそろそろ眠くなってきた所に爽やかな雰囲気になってしまったのだが、書いているのはドロドロとしたこんな文章なので、邪魔な長くなった髪の毛をかき上げて、いったい自分は何がしたくてこんな句点のない、そして意味のない(言っちゃった!)文章を書いているのだろうか、と思うかと言うと全然思いもしないで、確かに今年の御神籤の結果の『試験』の欄に『国語の勉強を今一度しなさい。』と書かれていたのを思い出す程に酷い文章ではあるけれども、それでも今までのblogの中で自分が一番書きたかった文章ではないか、と幾分誇張しつつもそれなりの満足感があるので、取り合えずtext保存してみた所6KBもあったから、ここまで読んでくれた『あなた』に上辺かも知れないけれども「ありがとう」と言う言葉を贈りたい。

 特に意味も含みも縦読みも何もないです。何もないです、と書かれると何かある様に思ってしまう人間という生き物は不思議ですな。